その日、俺はテレビを見ながら食事をしていた。テレビでは菓子メーカー・不二家の工場に潜入し、カントリーマアムのチョコまみれを作る製造過程に密着している様子が写っていた。俺はそれを見ながら、ポークチャップをおかずに白米をもりもりと食べていたのだ。
ファサ…♡という、落ち葉が地面に落ちるような音を聞いた気がした。
秋だな、と思った。最近はまた暑さがぶり返しているが、もう9月の半ばも過ぎた。落ち葉の季節だ。
しかしよく考えてみると、俺の家の中に木は生えていない。したがって家の中で落ち葉が落ちることもなかなか考えられないのだ。
ふと音のした方を見てみると、そこには普通の人間ぐらいの大きさのクロゴキブリがいた。
俺だって信じられない。しかし今まで俺が見て来たゴキブリの中でダントツに大きかった。当然だ。人間ぐらい大きいゴキブリなど聞いた事がない。思わずゴキブリに「噓でしょ?」と聞いてしまった。
返事は無かった。これだけ大きければもう話し合いで何とかなるのではないかという淡い期待もあったが、いくら大きさが人間と同じでもゴキブリはゴキブリである。話は通じないようだ。
まあ正直、人間ぐらい大きいというのは嘘だ。嘘というか、俺はゴキブリが世界で一番嫌いなので、急に出現されると恐怖のあまり普通より大きく見えてしまう。人間は基本的にそうで、犯罪の現場に臨場した警察官が被害者から被疑者の身長を聞く際、供述した身長よりも実際は低いものとして参照する、という話もある。
なのでまあ、実際に人間と同じくらい大きかったということはない。しかしそれでもiphone13くらいはあった。これは本当なので信じてもらいたい。
俺は最初それがゴキブリだとは信じたくなかったが、言葉が通じないことから人間ではないし、うちにiphone13は無い。髪の毛にそっくりな触覚が動いている様子を見ても、残念ながらゴキブリであると考える以外に無いようであった。
真っ白になりかけた頭で母に通報し、俺の部屋に入られることだけは死んでも阻止しなければならないのでとっさに自室の扉を閉めた。この間約0.5秒。
部屋の扉を閉める際、仕方ないのだが一瞬だけゴキブリから目を離すことになる。その一瞬、一歩だけ動いて扉を閉めて再び視線を戻すまでのその一瞬のあいだに、彼は忽然と姿を消したのだ。
俺は悲鳴を上げそうになった。ゴキブリはこれだから嫌なのだ。しかし不幸中の幸い、ゴキジェットと泡ジェットの二つを持って臨場した母が彼を発見した。
俺が最初に彼と対面したのは窓際の棚になっている部分の上。その右端のところだったのだが、彼は2m先の左端まで一瞬で移動していたのだった。
左端の窓は半分ほど開いて網戸になっていたため、窓枠のレールに彼が挟まって身を隠そうとしている姿が俺にもかろうじて見える。俺は母から泡ジェットを借り、狙いを定めた。
形容できない音とともに泡の線が発射され、かくして彼はレールごと泡の下に収まった。後は洗剤成分が彼の腹にある気門を塞いで窒息させるのを待つだけだ。ちなみに俺は虫が腹で呼吸している点も嫌いだった。
我が家は昔からゴキブリ対策には泡のスプレーを使ってきた。今年に入ってすべての会社が泡で捕獲するタイプのスプレーを製造しなくなってしまったのは正直信じられない気持ちだ。今家にある泡の在庫がなくなってしまったら俺たちはどうすればいいのだろうか。
まあそれは余談なのだが、かくして戦いは終わりを告げたものと思われた。しかしその直後、我々は信じられないものを目の当たりにすることとなる。
彼を泡の下に葬って数分後、俺は終わっていない食事の残りをやっつけていた。そして泡の様子を確認しようとした母が、身の毛もよだつような恐ろしい事実を叫ぶ。
「もう一匹いる!」
俺は飛び上がった。(本当は飛び上がっていない。ゆっくりと立ち上がったが、これは誇張を旨とする記号的表現である。以下にも続く)現場から少し離れたソファで夕飯の残りを食べていたところ、飛び上がった勢いのまま机を飛び越して母の下へと浮遊していったのだ。
俺は母の指さす場所を見た。最初のゴキブリを泡の下に葬った場所の、まさに真上。つまり窓枠の上のレールである。
そこに彼の姿はあった。大きさは先ほどと同じ、iphone13である。
信じがたい事実だ。ゴキブリが巣をつくるのは知っているが、つがいや子連れで活動するなど聞いた事が無い。いまウチは配管が破れて排水が床下に流れ出していることが判明したため基礎の修復工事を行っており、地下で暮らしていた虫が難民となっているためか害虫の出現率が高くなっているのだが、しかしそれにしても、こんな規格外のクソデカゴキブリが同時に二匹出るなどということはあまりに考え難い。
ここでひとつの可能性が頭をよぎった。
最初からこいつ一人なのではないのか?
思えば彼は最初、俺が目を離したほんの一瞬のうちに2メートルの距離を移動して見せた。そして泡で葬ったと思ったのも束の間、こうして新たなゴキブリが目の前に出現している。
こいつ、何らかの能力を持った一匹のゴキブリなのではないか?例えばそう、時を止める能力。
こいつ、スタンド使いなのではないか…?
だとすれば一筋縄ではいかないはずである。少なくとも普通のゴキブリではない。
俺は再び彼に狙いを定め、泡を発射した。今度こそ、奴が逃げるような様子は一切ない。完全に、泡に飲み込まれていく様子がこの目に見えたのだ。
しかしまだだ。奴の死体を見るまでは安心できない。戦いはまだ終わっていないのだ。俺は重力に従ってゆっくりと降りてくる泡の塊をライトで照らしつけ、一瞬も目を離さずに観察した。
やはりおかしい。今までの経験上、泡が溶けてここまで薄くなれば黒い死体の影が透けて見えるはずである。それなのに、ゆっくりと網戸を降下してくる白い塊の中には何かが入っている様子すら感じられないのだ。
「まだだ!まだ終わってないぞッ!」
俺は確信した。奴はまだ生きている。この俺の泡攻撃から、何らかの手段を使って再び逃れたのだ。
「そこだッ!!窓の裏に居るゥーッ!」
母が見つけた影にライトを当てると、半分開いた窓と網戸の間に奴の姿がぼんやりと浮かび上がった。この濡れたような黒い光の反射は間違いなく奴だ。
30センチも離れていない地点から放たれた泡ジェットの噴射を躱したということは、スプレーから泡が発射されてから奴に到達するまでの「ほんの一瞬にすら満たないごく短い瞬間」のうちに、泡より速く動いて避けたということである。いくら動きが速くてキモいことで有名なゴキブリでもそんなことは不可能だ。
これで確定した。奴は間違いなくスタンド使いだ。それも最強のスタンド、ザ・ワールドの能力。すなわち時間を止める能力である。
俺は仕方なく、殺虫成分で殺すタイプの缶(ゴキジェット)を手に取った。
我々が殺虫成分のゴキブリ殺しを極力使わない理由は二つ。猫を飼っているのでなるべく避けたいのと、母が露骨に体調を崩すからだ。(そのため母が実はでっかいゴキブリであるという可能性もあるのだが、今のところ20年一緒に暮らしていてそれを思わせるような要素はゴキブリに有効な殺虫成分に弱いという点だけなので、恐らく人間だと思われる。)
ゴキジェットを手に取り、窓と網戸の隙間に差し込んで噴射する。
直後、殺虫成分の霧に容赦なく晒された奴は、「にょわ~~~~~!!!」という感じで暴れまわりながらめちゃめちゃキモい動きで網戸の上を四方八方に疾走し始めた。
その動きを例えるならそう、コウメ太夫の動きを10倍速にした様子を想像してもらいたい。コウメならおもしろいだけだからいいが、実際にそれをやっているのはクソデカゴキブリである。「にょわ~はこっちだよ」と思った。
しかしいくら奴が時間を止める能力を持つスタンド使いとはいえ、点で捉える泡攻撃とは違って空間を支配する殺虫成分のスプレー攻撃は躱し切ることが出来なかったらしい。確実に効いたのだ。
奴は網戸の上を走り回り、ついに窓の裏からこちら側まで出て来た。網戸の面で言えば確実に屋内に居るのだから必ずこうなるだろうとは思っていたが、やはり実際に出てこられると緊張するものだ。俺は「にょわ~〜〜〜〜!!」と思った。
しかし直後、奴は網戸から転落して下のレールに落ちた。時を止めたのではない。落ちていく様子が俺の目にもしっかり映っていた。
このチャンスを逃してはもう二度とこいつに勝つことはできないという確信があった。俺は構えていた泡ジェットの狙いをつけ、3度目の噴射を行った。
当たったように見えたが相手はスタンド使いである。二度も躱された泡攻撃が今度こそ通用したという保証はもちろんない。俺はとっさに泡の周囲を見渡し、奴がまた時を止めて逃れた可能性を探った。
姿は無い。泡はまだ溶けていないので中に居るのかも分からない。束の間の静寂の中で、俺は奴の気配だけを必死に探っていた。
次の瞬間、泡の中から2本の手足が突き出てきた。いや、正確にはゴキブリに手は無いので2本の足である。その足はめちゃめちゃに暴れまわり、次第に周囲の泡をかき分けて他の足も出て来た。奴は時を止めていなかったのだ。
しかしやはりスタンド使いである。この期に及んで泡を掻き分け、無理やりに出て来ようとする様子はまさにスタープラチナだった。もはや「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ」という声も聞こえてくる。まさに3部の潜水艦内で襲ってきたスタンド「ハイプリエステス」の口の中から歯を全部叩き折って脱出した時のスタープラチナそのものだった。
しかしもう遅い。俺の手元にはいくらでも泡を追加できるスプレーが握られているのだ。いくら泡を殴ろうとも、すべての泡を吹き飛ばすことなど到底不可能である。
「もうおそい!脱出不可能よッ!」
俺は再びスプレーを構え、全力を込めて容赦なく泡を追加した。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄アーーーッ!!!」
「8秒経過!ウリイイイイヤアアアッーぶっつぶれよォォッ!!!」
かくして奴は泡の底へ埋もれていった。もはや奴がどんなに足を動かそうとも、外からは動きすら見えはしない。
終わったのだ…。奴は俺のこの泡の下に完全に破れ去った。
俺たちはそこから10分ほど、ひたすら泡を見つめていた。ありえない話だが、万が一にも「オラァ!」という声とともに目の前の泡が爆発四散し、中から現れたゴキブリが2足歩行でゆっくりとこっちに歩いてこようものならたまったものではない。今度こそ殺されてしまう。
しかし奴が現れることは無かった。10分後に泡が溶けると、中からは奴の真っ黒な死体が出てきたのだ。
かくして激闘は終わりを迎えた。終わったのだ。
最後に、泡タイプのゴキブリ殺しの制作を終了してしまった各社の皆様に一言だけお願いさせていただきたい。お願いだから泡タイプのやつを作ってください。いま家にある在庫がなくなってしまったら我が家は終わります。ゴキブリの支配下に落ちてしまうのです。
緑地帯が異常に多いせいで毎年ゴキブリが出現する地域より願いを込めて
雑和失礼(@zawa_rude)